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奥田孫太夫重盛・貞右衛門行高父子の墓 ― 雪野山山麓に残る忠義の記憶

奥田孫太夫重盛・貞右衛門行高父子の墓
目次

雪野山山麓、静かな参道から

雪野山の山裾を歩き、杉木立の間を抜けていくと、人の気配がすっと遠のく場所に行き着く。八幡社古墳群のほど近く、洞泉寺跡と伝えられる一角に、ひっそりと石塔が立っている。写真で見ていたはずの場所でありながら、実際に辿り着くと、思わず足を止めてしまう静けさがあった。

雪野山を背にしたこの場所は、赤穂や江戸といった忠臣蔵の舞台とはまったく異なる風景である。だからこそ、ここに奥田孫太夫重盛・貞右衛門行高父子の名が刻まれていることに、強い違和感と、そして確かな意味を感じさせる。

雪野山の山頂から蒲生町側(東近江市側)に降りてくると
八幡社古墳群と八幡神社がある。
八幡神社を超えてしばらく歩くと左側の洞泉寺跡に、奥田孫太夫重盛と奥田貞右衛門行高父子の墓(供養塔)がある。

石塔に刻まれた言葉

石塔のそばに立つ立て札には、次のような文言が記されている。

元禄十五年十二月十四日大石良雄等の同士四十七士、故主浅野長矩の為仇を報ず。孫太夫及び養子貞右衛門は近松勘六家より来る。共に其中に加り、翌年二月四日自刃す。時に孫太夫五十六才、貞右衛門二十五才。然して此の地は奥田家の帰衣す深き洞泉寺跡なり。

簡潔な文章の中に、討ち入りの日付、主君浅野長矩への忠義、近松勘六との関係、そして父子の最期までが凝縮されている。この一文だけでも、奥田父子がいかなる覚悟で赤穂浪士として生き、そして死んだのかが静かに伝わってくる。

浅野内匠頭家来、四十七義士――奥田貞右衛門行高、父子二人の墓

墓石の背面には、「寛延三年十月二十五日」とともに、「奥田元長」「奥田元統」の名が刻まれている。

墓の手前にあった小さい塔

奥田孫太夫重盛・貞右衛門行高父子――近松勘六との縁

この雪野山山麓に残る石塔は、奥田孫太夫重盛・貞右衛門行高父子の「墓」というよりも、近江との縁を今に伝える供養塔である。二人の遺骸は、他の赤穂義士たちと同様、江戸・泉岳寺に葬られている。

にもかかわらず、遠く赤穂や江戸ではなく、この近江の地に父子の名を刻んだ石塔が建てられた。その理由を考えるとき、鍵となるのが近松勘六行重との関係である。

貞右衛門行高は、近江野洲郡比留田村の近松家の出身であり、赤穂浪士・近松勘六行重の腹違いの弟にあたる人物であった。孫太夫にとって貞右衛門は養子であり、血縁と主従、そして同志としての結びつきが重なり合った存在である。討ち入りに際して、近松家の中には慎重論もあったと伝えられるが、それでも貞右衛門が義士として名を連ねた背景には、孫太夫との強い関係があったと考えられている。

この供養塔が建立されたのは、寛延三年(1751)、討ち入りから四十九年後のことである。建立者として刻まれているのは、奥田元長・奥田元統の名である。元長は庄屋、元統は医師であったと伝えられ、いずれも近江中羽田の奥田家本家筋の人物である。系図上では、孫太夫とは曾祖父の代でつながるに過ぎず、決して近い血縁とは言えない。

それでも彼らが供養塔を建てた背景には、単なる血筋以上の思いがあった。近松家と奥田家はいずれも医業を通じた交流を持っており、孫太夫が貞右衛門を養子とする過程で、この近江の地をたびたび訪れていた可能性が指摘されている。奥田元長・元統にとって、孫太夫と貞右衛門は、系図の上の遠い親族ではなく、語り継がれるべき「一族の誇り」であったのだろう。

さらにこの時代は、『仮名手本忠臣蔵』に代表される忠臣蔵ブームの渦中にあった。赤穂義士を顕彰する動きが各地で高まる中、近江の地においても、奥田父子の忠義を形として残そうとする機運が生まれた。その結果が、この雪野山山麓に建てられた供養塔であった。

この石塔は、奥田孫太夫重盛・貞右衛門行高父子の最期を伝える「墓標」ではない。むしろ、忠義という行為が、土地と人の記憶の中でどのように受け継がれていったのかを物語る、静かな証人なのである。

奥田孫太夫重盛という人物

―― 赤穂藩士としての立場・性格・討ち入りでの位置づけ

奥田孫太夫重盛(おくだ まごだゆう しげもり)は、赤穂浅野家に仕えた中堅藩士であり、四十七士の中では決して目立つ存在ではない。しかし、その行動と人間関係を丹念に追っていくと、討ち入りという集団行動のなかで、極めて重要な「推進力」を担った人物であったことが見えてくる。

孫太夫は、もともと近江に系譜をもつ奥田氏の一族で、縁あって赤穂藩に仕官した。身分としては重臣層ではないが、実務に通じ、意志が強く、同輩からの信頼も厚かったとされる。史料や後世の評価から浮かび上がる孫太夫像は、温厚というよりも、むしろ一本気で妥協を許さぬ性格であった。

その性格は、浅野内匠頭刃傷事件後の赤穂藩士たちの動揺の中で、はっきりと表に現れる。浪士となったのち、仇討ちに対して消極的な空気が漂うなかでも、孫太夫は一貫して強硬な姿勢を崩さなかったと伝えられる。討ち入りは感情の爆発ではなく、長期にわたる準備と忍耐を必要とする行為であったが、その過程において、孫太夫のような覚悟を固めた人物の存在は不可欠であった。

また、孫太夫の人物像を語るうえで欠かせないのが、近松勘六との関係である。孫太夫は、近松勘六の腹違いの弟である貞右衛門行高を養子に迎えている。この縁組は、単なる家の存続のためだけではなく、思想や覚悟を共有する関係性の上に成り立っていたと考えられる。

実際、近松家では討ち入りに否定的な意見が強かったとされるが、結果として勘六と貞右衛門の二人が参加している。その背景には、孫太夫という存在が、精神的な支柱として強く影響していた可能性を否定できない。貞右衛門にとって孫太夫は、養父であると同時に、進むべき道を示す指導者でもあったのであろう。

討ち入り当夜、奥田孫太夫重盛は大石内蔵助らと行動をともにし、吉良邸討入という歴史的瞬間の一翼を担った。そして翌年二月四日、四十七士の一人として泉岳寺において切腹する。その最期は、個人としての悲劇であると同時に、武士として選び取った結末でもあった。

しかし、孫太夫の選択は、彼一人の死で完結するものではなかった。養子・貞右衛門、その遺された子へと、忠義の重さは引き継がれていく。雪野山山麓に建てられた供養塔は、そうした連なりを静かに受け止める場所であり、奥田孫太夫という人物が、近江と赤穂を結ぶ存在であったことを、今に伝えているのである。

貞右衛門行高という若き義士―― 養子という立場、子を遺しての決断

奥田貞右衛門行高(おくだ さだえもん ゆきたか)は、四十七士の中でも最年少級に属する義士である。養父・奥田孫太夫重盛に比べ、その名は史料の表に大きく現れることは少ない。しかし、その生涯と最期を辿ると、貞右衛門は討ち入りという事件の中でも、とりわけ重い選択を背負った人物であったことがわかる。

貞右衛門は、近江国野洲郡比留田村(現・野洲市)の近松家に生まれた。近松家は代々医業を営む家系であり、赤穂浅野家にも御典医として関わりをもっていたとされる。その縁により、男子に恵まれなかった奥田孫太夫の養子となり、奥田家を継ぐ立場となった。

養子という立場は、家を存続させる責任を一身に背負うことである。とりわけ武家社会においては、家名の断絶は重大な問題であり、貞右衛門は若くして、その重みを自覚せざるを得なかった。しかも彼は、養父孫太夫とともに、主君浅野内匠頭長矩の無念を晴らすという、命を賭した選択に加わることになる。

討ち入りのわずか一週間前、貞右衛門には男子・清十郎が誕生している。家を継ぐべき嫡子を得たその時期に、死を覚悟した行動に身を投じるという決断は、並大抵のものではない。伝えられるところによれば、貞右衛門はわが子の将来を案じ、遺書を認めたとされる。その筆致には、父としての未練と、武士としての覚悟とが、静かに交錯していたに違いない。

討ち入り当夜、貞右衛門は養父孫太夫と行動をともにし、義士の一人としてその役割を果たした。そして翌年二月四日、泉岳寺において切腹。享年二十五。その死は、若さゆえの悲劇として語られることも多いが、同時に、己の立場と責務を理解したうえでの、主体的な選択であったと見るべきであろう。

遺された清十郎は、貞右衛門の母の実家である仁尾家に引き取られ、のちに阿波徳島藩蜂須賀家に召し抱えられた。赤穂義士の子は「忠義の子」として各藩から遇されたといわれるが、そこには父たちの死が、ただの悲劇では終わらなかったという、歴史のもう一つの側面がある。

貞右衛門行高という存在は、討ち入りの華やかな物語の陰に隠れがちである。しかし、家を継ぐ者として、父として、そして武士として、何を選び、何を遺したのかを考えるとき、彼の決断は、忠臣蔵という物語に、深い人間的奥行きを与えていると言えるだろう。

補節 近松家と奥田家 ― 医師という共通項

奥田孫太夫重盛・貞右衛門行高父子の背景をたどると、近松家と奥田家を結びつけている、もう一つの重要な共通項が浮かび上がる。それが「医師」という生業である。

近松家は、近江国野洲郡比留田村において、代々医業を営んできた家系であった。赤穂浅野家に対しても御典医として関わりを持ち、藩政のなかで一定の信頼と位置を占めていたことがうかがえる。一方、奥田家もまた、近江において医師を生業とする人物を輩出しており、後に供養塔を建立した奥田元統も医者であったと伝えられている。

医師という職能は、武士のように主従関係の論理だけで動く存在ではなく、人の生と死の境目に日常的に立ち会う立場である。そこには、命を救うことへの責任と同時に、命が尽きる現実を受け止める覚悟が求められる。近松家と奥田家が、医業を通じて交流を持ち得た背景には、そうした価値観の共有があったのではないだろうか。

奥田孫太夫が、近松家から貞右衛門を養子に迎えたことも、単なる血縁や家格の問題だけでなく、医師としての信頼関係、人としての見込みを含んだ選択であった可能性が高い。実際、医業を通じた結びつきがなければ、遠く離れた赤穂と近江とを結ぶこの縁は、生まれにくかったはずである。

こうして見ると、忠臣蔵の物語の背後には、武士の忠義だけでなく、医師という立場から培われた倫理観や人間観が、静かに影を落としていることに気づかされる。近松家と奥田家は、武と医、生と死という異なる世界を行き来しながら、一つの決断の場に立ち会った家々であったと言えるだろう。

雪野山山麓が引き受けた忠義の記憶

赤穂浪士の名は、泉岳寺や赤穂城下と結びついて語られることが多い。しかし、雪野山山麓にひっそりと建つ供養塔は、忠義という出来事が、特定の土地だけに属するものではなかったことを教えてくれる。

この地に建てられた供養塔は、奥田孫太夫重盛・貞右衛門行高父子が眠る墓というよりも、近江の人々が彼らをどう記憶し、どう語り継ごうとしたかを示す「記憶の装置」である。討ち入りから四十九年後、忠臣蔵ブームのさなかに建立されたという事実は、後世の人々がこの物語に何を見出していたのかを雄弁に物語っている。

忠義とは、声高に叫ばれる理念ではなく、静かに引き受け、次の世代へと手渡されていくものなのかもしれない。養父から養子へ、父から子へ、主君から家臣へ――その連なりを、雪野山山麓は今も変わらぬ姿で受け止めている。

杉木立の奥に立つ供養塔の前に立つとき、私たちは歴史の「結果」ではなく、その背後にあった無数の選択と覚悟に思いを馳せることになる。近江という土地に残された忠義の記憶は、決して過去のものではなく、今を生きる私たちに、静かに問いを投げかけ続けているのである。

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この記事を書いた人

旅に出て土地に流れる時間に耳を澄ませ、歴史の面影を今に伝える風景や文化を訪ね歩いています。近江の歴史を中心に、史料や文学にも親しみながら、各地で出会った風景や物語、人々の営みを書き留めています。地域に息づく記憶や文化の魅力を静かに綴る、旅と歴史の記録です。

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