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西川史料研究 第1報 御領神社棟札再読報告―『竜王町史』掲載棟札写真の再検討―「後花園院御宇」の発見と写真番号の再検証―

西川史料研究 第1報 御領神社棟札再読報告―『竜王町史』掲載棟札写真の再検討―「後花園院御宇」の発見と写真番号の再検証―
目次

はじめに

滋賀県蒲生郡竜王町西川には、現在、吉水神社に合祀されている御領神社が存在した。

『竜王町史』には、御領神社および吉水神社の棟札写真が掲載されており、本文では御領神社について「康正二年(1456)に再興」、吉水神社については「寛文七年(1667)に社殿再建」と紹介されている。

これまで私も『竜王町史』本文の記述ばかりに注目し、掲載された棟札写真そのものを詳しく読み解くことはなかった。しかし今回、写真を拡大して一字ずつ確認したところ、御領神社の棟札には本文では紹介されていない**「後花園院御宇」**の文字が記されていることに気付いた。

「後花園院」とは、室町時代の第102代天皇・後花園天皇を指す。棟札には単に年代だけでなく、後花園天皇の御代(御宇)であることまで記されており、これは御領神社の沿革を考える上で極めて重要な記載である。

しかし、『竜王町史』本文では「康正二年再興」の事実のみが紹介され、この「後花園院御宇」の記載については触れられていない。

さらに本文と掲載写真を照合した結果、吉水神社と御領神社の棟札写真について、写真番号または参照先に編集上の取り違えがある可能性も見いだした。

本稿では、『竜王町史』掲載の棟札写真を改めて検証し、「後花園院御宇」の記載を紹介するとともに、写真番号との対応関係を整理し、その史料的意義について考察してみたい。

『竜王町史』本文と掲載写真

『竜王町史』第2巻648頁には、吉水神社および御領神社について次のように記されている。

吉水神社の項では、創祀年代は明らかではないものの、寛文七年(1667)末八月に社殿が再建されたことが棟札から確認できるとされ、本文中には「棟札(写真26)」との参照が付されている。

一方、御領神社の項では、

「御領神社は、その棟札によると康正二年(1456)に再興され、その後元禄十四年(1701)に修造されたことが明らかである。」

と記されている。

つまり本文から整理すると、

  • 吉水神社の棟札には「寛文七年」の記載があること。
  • 御領神社の棟札には「康正二年」の記載があること。

が読み取れる。

竜王町史
『竜王町史』648・649頁掲載の吉水神社・御領神社関連記事

写真番号の対応を検証する

前章では、『竜王町史』本文の記述と掲載写真を確認した。

そこで次に、本文と棟札写真との対応関係を改めて照合してみたい。

『竜王町史』本文と棟札写真の対応関係(筆者作成)

『竜王町史』648・649頁。本文と掲載写真を照合すると、吉水神社の説明で参照される「写真26」と、実際の棟札写真との対応に再検討の余地があるように思われる。

吉水神社の項では、

「棟札(写真26)」

との参照が付されている。

ところが、写真26を確認すると、

「後花園院御宇」

「康正二年」

と読むことができる。

これは、御領神社の説明にある

「康正二年(1456)に再興」

という記述と一致する。

一方、写真27には

「寛文七年」

の文字が確認できる。

これは吉水神社の説明にある

「寛文七年末八月、社殿が再建されている。」

という記述と一致している。

以上を整理すると、本文と棟札写真との対応は次のようになる。

本文の記述一致する棟札写真
吉水神社(寛文七年再建)写真27
御領神社(康正二年再興)写真26

したがって、『竜王町史』648頁において吉水神社の説明文から**「写真26」**を参照している箇所については、写真27を参照すべきであった可能性が高いと考えられる。

また、写真26は本文の内容から判断すると、御領神社の棟札として理解するのが自然である。

もっとも、本稿は『竜王町史』の誤りを断定することを目的とするものではない。本文の記述と掲載写真を照合した結果、写真番号または参照先について再検討の余地があることを指摘するものである。

そこで次章では、御領神社の棟札と考えられる写真26を拡大し、棟札本文を改めて読み直してみたい。

棟札に記された「後花園院御宇」

前章で述べたように、写真26は御領神社の棟札である可能性が高い。

そこで改めて棟札写真を拡大し、一字ずつ判読してみた。

御領神社棟札(写真26)拡大

御領神社棟札(写真26)拡大

判読できる範囲では、次のように読むことができる。

御領大明神御社……

……中興 後花園院御宇 康正二年……

……元禄十四年……

『竜王町史』本文では、

「康正二年(1456)に再興された」

と紹介されているが、

棟札にはさらに

「後花園院御宇」

という文字が明確に記されている。

「後花園院御宇」とは何か

「後花園院」とは、室町時代の第102代天皇・後花園天皇を指す。

「御宇(ぎょう)」とは、天皇が天下を治める**御代(みよ)**を意味する語である。

したがって、

「後花園院御宇康正二年」

とは、

「後花園天皇の御代である康正二年(1456)」

を意味する。

つまり、この棟札は御領神社が後花園天皇の御代に中興されたことを記録した史料なのである。

棟札の判読

写真を拡大し、判読できる部分を文字起こしすると、次のようになる。

御領大明神御社□□建立之□□不分明
其後中興 後花園院御宇 康正二年 □□
又□□至二百有□十六春 時元禄十四年□□……

※ □は判読できない文字を示す。

このうち、

「其後中興 後花園院御宇 康正二年」

の部分は比較的明瞭に確認することができる。

「御宇」とは天皇の御代(みよ)を意味する語であり、

この部分は

「その後、後花園院(後花園天皇)の御代、康正二年に中興された」

と理解できる。

『竜王町史』では紹介されていない重要な記載

『竜王町史』本文では「康正二年再興」という年代のみが紹介されている。

しかし棟札には、それだけではなく**「後花園院御宇」**と記され、後花園天皇の御代であることまで明記されている。

これは単なる年代表記ではなく、後花園天皇という具体的な時代を示した重要な歴史情報であり、御領神社の沿革を考える上で見過ごすことのできない記載である。

今後の研究課題

もちろん、この記載だけをもって、

  • 後花園天皇が御領神社の再興を命じたこと
  • 勅願による造営であったこと
  • 天皇家が直接関与したこと

を断定することはできない。

したがって、現段階では、この棟札は**「後花園天皇の御代である康正二年に御領神社が中興されたことを伝える史料」**として理解するのが妥当である。

しかし、なぜ御領神社の棟札に**後花園天皇(後花園院)**の御名が記されたのか。

この**「後花園院御宇」**という記載は、単なる年代表示なのか、それとも御領神社や西川地区と朝廷との何らかの関係を示唆するものなのか。

現時点では結論を下すことはできない。しかし、この四文字が棟札に刻まれているという事実は、御領神社のみならず、西川地区の中世史を考える上でも極めて重要な手がかりとなる可能性がある。

また、西川地区には現在も**「御領」**と呼ばれる地域が残されており、室町時代の公家・西川房任との関係についても、新たな視点を与える可能性がある。

今後は『親長卿記』『看聞日記』『公卿補任』、平山敏治郎「参議西川房任卿」などの史料をもとに、これらの関連性についてさらに検討を進めていきたい。

付記 『竜王町史』編纂資料の所在について

本稿では、『竜王町史』掲載の棟札写真をもとに再検討を行った。

今回の調査を通じて改めて感じたのは、『竜王町史』編纂時に調査・撮影された資料の重要性である。

当時は、西川から棟札をはじめ多くの史料が提供され、写真撮影や調査が行われた。しかし、現在、それらの資料の所在は確認できていない。西川にも返却された形跡はなく、他の字についても同様の状況であるという。

これらの資料が現在どこに保管されているのか、あるいは何らかの事情により所在不明となったのかは明らかではない。しかし、もし現存していれば、本稿で扱った棟札をはじめ、地域史研究に極めて重要な資料となったはずである。

地域の歴史資料は、一度失われれば二度と元に戻ることはない。今後、新たな史料の所在が確認されることを期待するとともに、残された資料の保存と継承の重要性を改めて強調しておきたい。

本稿は、限られた史料からの再検討である。しかし、今後新たな資料が発見されれば、本稿で示した内容についてもさらに検証が進むことを期待したい。

※本稿は継続中の研究の一部であり、今後の調査により内容を修正・追補する場合があります。

この記事を書いた人

旅に出て土地に流れる時間に耳を澄ませ、歴史の面影を今に伝える風景や文化を訪ね歩いています。近江の歴史を中心に、史料や文学にも親しみながら、各地で出会った風景や物語、人々の営みを書き留めています。地域に息づく記憶や文化の魅力を静かに綴る、旅と歴史の記録です。

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