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近松勘六の墓を訪ねて ― 野洲・錦職寺

近松勘六の墓

滋賀県野洲市木部。
浄土真宗木辺派本山・錦職寺の境内に、赤穂義士のひとり、近松勘六行重の墓があります。

木立に囲まれた墓域に並ぶ三基の墓石。
いずれも近松家のものと伝わり、中央のひときわ大きな墓石が勘六の墓とされています。

右側面には
「比留田邑(ひるたむら)近松氏」
と刻まれています。

現在の野洲市比留田。
この地が、近松家ゆかりの村であったことを静かに物語っています。

けれども、そこに「勘六」の名はありません。

墓石の左側面には
「元文五年庚申五月建」
とあります。元文五年は1740年。元禄十五年(1703年)の討ち入りから37年後に建立されたことになります。

なぜ戒名や「勘六」の名が刻まれていないのか。
当時はまだ、赤穂事件に連なる名を明示することが憚られたのでしょうか。
想像は尽きません。

義僕・甚三郎という存在

以前、近江出身の赤穂義士について書いた際、ゆかりの方から大変興味深いお話をうかがいました。

近松勘六には、切腹の時点で実子がなかったこと。
そのため、従者であった百姓・甚三郎が庶子として家督を継いだこと。
現在、中主(比留田)に残る家系は、その甚三郎の末裔であるということ。

主君に最後まで尽くし、その家を絶やさぬよう継いだ甚三郎。
四十七士の陰に隠れながらも、その忠義は決して劣るものではありません。

墓域に並ぶ左右の墓石。
そのどちらかが、甚三郎のものなのかもしれない――
そう思いながら手を合わせました。

歴史は、華々しい討ち入りの場面だけでできているのではありません。
その後を生きた人々、名を刻めなかった人々の静かな時間もまた、歴史の一部です。

近松勘六、そして近松家の墓前に立ち、
遠い元禄の気配と、近江の土に根を下ろした家の記憶を感じました。

胸の奥にじんわりと広がるもの。
それは単なる「感動」という言葉では足りない、
土地と人と時間が重なった瞬間の余韻でした。

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この記事を書いた人

旅に出て土地に流れる時間に耳を澄ませ、歴史の面影を今に伝える風景や文化を訪ね歩いています。近江の歴史を中心に、史料や文学にも親しみながら、各地で出会った風景や物語、人々の営みを書き留めています。地域に息づく記憶や文化の魅力を静かに綴る、旅と歴史の記録です。

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