はじめに
御領神社跡には現在、「御霊神社跡」と刻まれた石碑が建てられている。
筆者が以前から疑問に感じていたのは、西川北部一帯が古くから地域住民によって「ごりょう」と呼ばれてきたことである。これは行政上の地名ではなく、地域内で自然に受け継がれてきた呼称である。「ごりょうの人」「ごりょうへ行く」といった言い方は現在も用いられている。一方で、明治中期以降には「御霊神社」という表記も現れるため、この「ごりょう」という呼称が本来何に由来するのかは改めて検討する必要がある。
また、筆者は昭和四十八年頃まで、観音堂近くの宝篋印塔付近に「御陵(みささぎ・ごりょう)」と刻まれた石柱が建っていたことを記憶している。現在その石柱は失われ、確認することはできないが、「御陵」と「ごりょう」という地域呼称との関係も以前から気になっていた。
もし神社の正式名称が古くから「御霊神社」であったならば、この地域を「ごりょう」と呼ぶ習慣がどのように成立したのかという疑問が残る。
筆者は以前から、この神社の本来の名称は「御領神社」であると考えてきた。
その理由は、西川北部が古くから「ごりょう」と呼ばれてきたことに加え、令和4年(2022)に観音堂から発見された明治初年の大福帳に「御領社中」と記されていたためである。
さらに今回、『竜王町史』掲載の棟札写真を再検討した結果、棟札には**「御領大明神」**と明記されていることが確認できた。
本稿では、この二つの史料を中心に、御領神社の名称について再検討し、「御霊神社」と呼ばれるようになった経緯について考察する。
御領神社はいつから「御霊神社」と呼ばれるようになったのか
現在、西川では「御霊神社跡」と刻まれた石碑が建てられているため、多くの人が古くから「御霊神社」であったと考えている。
しかし、これまで確認できた史料を年代順に見ていくと、必ずしもそうではない。
このような疑問を抱いていた中、令和4年(2022)5月18日、西川観音堂で保管されていた大福帳を確認したところ、明治初年のものと考えられる帳面の表紙に「御領社中」と記された史料を確認した。これは、少なくとも明治初年には神社が「御領」の名で認識されていたことを示す重要な手掛かりとなる。
一方、その後の大福帳には「御霊」の名称が現れるようになる。
つまり、少なくとも明治初年までは「御領」の名称が用いられていたことを示す史料が存在し、その後のある時期に「御霊」という名称へ変化した可能性が考えられる。
そこで、まず大福帳を年代順に確認してみたい。

写真1は、明治初年の大福帳の表紙である。
「御領社中」の四文字が記されており、
本稿の出発点となった重要な史料である。
『近江蒲生郡志』には「御霊神社」と記され、大正3年10月に吉水神社へ合祀されたことが記録されている。したがって、大正初期にはすでに「御霊神社」の名称が用いられていたことが分かる。一方、棟札や明治初年の大福帳には「御領」の名称が確認できることから、その間の時期に名称変更が行われたものと考えられる。
大福帳にみる名称の変遷
令和4年(2022)5月18日、西川観音堂に安置される木造十一面観音菩薩立像の調査に際し、観音堂内に保管されていた古文書を確認したところ、多数の大福帳が発見された。

その多くは農業用発動機に関する帳簿であるが、その中には神社・講・観音堂の運営に関わる記録も含まれている。例えば、「神明講金貸付帳」(明治44年)、「観音堂修繕諸控帳」(昭和3年)などが確認できる。「御宮屋根葺惣通」(大正2年)と題する帳簿も確認できるが、現時点ではどの神社を指すものかは明らかではない。本稿で取り上げる「御領社中」と記された大福帳も、そのような一連の史料群の中から発見されたものである。これらの大福帳は、明治初年から昭和期まで継続して残されている貴重な史料である。
その中で注目すべき点は、最も古い明治維新直後の大福帳の表紙に「御領社中」と明記されていたことである(写真3)。

一方、その後の年代の大福帳には、「御霊」あるいは「御霊神社」と記されたものが確認される(写真4)。

つまり、大福帳を年代順に見ていくと、
- 明治初年頃 … 「御領社中」
- 明治中期以降 …「御霊」
という名称の変化が認められる。
このことは、少なくとも明治維新直後までは地域の人々が「御領」という名称を用いていたことを示す重要な史料である。
| 時期 | 確認できる名称 | 史料 |
|---|---|---|
| 康正2年(1456) | 御領大明神 | 棟札 |
| 明治初年 | 御領社中 | 大福帳 |
| 明治中期以降 | 御霊 | 大福帳 |
| 明治中期頃 | 御霊神社跡 | 石碑 |
現在では「御霊神社跡」と刻まれた石碑が建てられているため、古くから「御霊神社」であったように受け取られることも少なくない。しかし、大福帳は、その認識とは異なる歴史を伝えている。
もちろん、この史料だけで名称変更の時期や理由を断定することはできない。しかし、「御領」という名称が実際に用いられていたことを示す一次史料として、その価値は極めて高い。
さらに、この事実は、今回新たに判読した棟札に記された**「御領大明神」**という名称とも一致しており、「御領」が近世以前から用いられていた名称である可能性を強く示唆している。
棟札には「御領大明神」と記されていた
前章では、明治初年の大福帳に**「御領社中」**と記されていることを確認した。

さらに今回、『竜王町史』掲載の棟札写真を改めて拡大し、一字ずつ判読したところ、棟札冒頭には
「御領大明神」
と記されていることが確認できた。(写真5)
『竜王町史』本文では、この棟札について「康正二年(1456)に再興され、その後元禄十四年(1701)に修造されたことが明らかである」と紹介されているが、棟札冒頭の神社名については特に触れられていない。
しかし、棟札には神社の名称として**「御領大明神」**が明記されており、この点は極めて重要である。
棟札の判読できる部分を示すと、次のようになる。
御領大明神御社昔時建立之□□不□分明
其後中興 後花園院御宇 康正二年□□
又□□至二百有□十六春 時元禄十四年□□……
※ □は判読不能文字を示す。
この棟札は、康正二年の中興と元禄十四年の修造を伝える史料であるとともに、神社が**「御領大明神」**と称されていたことを今日に伝える貴重な史料でもある。
この名称は、前章で紹介した明治初年の大福帳に記された**「御領社中」とも一致しており、時代の異なる二つの史料がともに「御領」**の名称を伝えている点は注目に値する。
では、なぜ「御領大明神」は、後に「御霊神社」と呼ばれるようになったのであろうか。次章では、棟札と大福帳という二つの史料を踏まえ、その名称の変遷について考察してみたい。
「御領大明神」は何を意味するのか
棟札には**「御領大明神」、明治初年の大福帳には「御領社中」**と記されていた。
時代の異なる二つの史料が、ともに「御領」の名称を伝えていることから、「御領」は一時的に用いられた名称ではなく、少なくとも中世から明治初年にかけて継続して用いられていた可能性が高いと考えられる。
一方、現在は「御霊神社跡」と刻まれた石碑が建てられており、地域でも「御霊神社」として知られるようになっている。
では、「御領」とは何を意味するのであろうか。
現時点では、その由来を断定することはできない。しかし、いくつかの可能性を考えることはできる。
第一に、「御領」は、中世において天皇や院、公家、寺社などの領地を意味する「御領(ごりょう)」に由来する可能性である。
第二に、江戸時代に当地の一部が大名の支配地であったことから、特別な領地を意味する呼称として「御領」が用いられた可能性である。
さらに、第1報で紹介したように、御領神社の棟札には**「後花園院御宇」**の文字が確認された。
この記載に着目したことを契機として、筆者は「御領」という名称についても、中世の政治的・歴史的背景との関連を改めて検討する必要性を認識するに至った。
現時点では、その背景を直接示す史料は確認されておらず、あくまで仮説の段階にある。しかし、「後花園院御宇」の記載は、「御領」という名称の由来を考える上でも、新たな視点を与える重要な手掛かりとなる可能性がある。
今後は、『親長卿記』『看聞日記』『公卿補任』などの文献史料に加え、公家・西川房任に関する史料についても検討を進め、「御領」という名称が成立した背景についてさらに考察を深めていきたい。
まとめ
本稿では、御領神社の名称について、棟札と大福帳という二つの史料をもとに検討を行った。
その結果、御領神社の棟札には**「御領大明神」、明治初年の大福帳には「御領社中」と記されていることを確認した。時代の異なる二つの史料が、ともに「御領」の名称を伝えていることは、御領神社が本来「御領」**と称されていたことを示す重要な証拠であると考えられる。
一方、明治中期以降の大福帳には「御霊」の名称が現れ、現在では「御霊神社跡」と刻まれた石碑も建てられている。このことから、「御領」から「御霊」へと名称が変化した可能性が考えられるが、その時期や経緯については、なお明らかではない。
また、第1報で紹介した棟札の**「後花園院御宇」**という記載は、「御領」という名称の由来や、その歴史的背景を考える上でも重要な手掛かりとなる可能性を示している。
今後は、『親長卿記』『看聞日記』『公卿補任』などの文献史料に加え、公家・西川房任に関する史料や地域に伝わる資料をあわせて検討し、「御領」という名称の成立と変遷について、さらに研究を進めていきたい。
本稿が、御領神社の本来の名称と、その歴史的背景を考えるための一つの資料となれば幸いである。
付記 「御陵」の石柱について
本稿では、御領神社の名称について「御領大明神」および「御領社中」という二つの史料を中心に検討を行った。
一方、筆者は幼少の頃、観音堂近くの宝篋印塔付近に**「御陵(みささぎ・ごりょう)」**と刻まれた石柱が建っていたことを記憶している。現在その石柱は失われており、所在や建立時期を確認することはできないが、「御陵」と古くから伝わる「ごりょう」という地域呼称との関係については、今後さらに検討を進めたい。
また、大友皇子(後の弘文天皇)の終焉地・陵墓については古来さまざまな説があり、滋賀県内をはじめ各地に伝承が残されている。しかし、現時点では西川との関係を示す史料は確認されていないため、本稿では一つの問題提起として記すにとどめたい。
今後は、「御陵」と刻まれた石柱の実在や建立時期についても、地域に残る証言や写真資料、文献などをもとに調査を進め、「ごりょう」という呼称との関係について検討していきたい。
※本稿は継続中の研究の一部であり、今後の調査により内容を修正・追補する場合があります。

