初版公開:2025年10月27日
増補改訂版公開:2026年7月11日
はじめに(増補改訂版)
第1報では、『竜王町史』に掲載された御領神社棟札写真を再検討し、従来十分注目されていなかった**「後花園院御宇」の記載を確認した。さらに第2報では、棟札に記された「御領大明神」の文字と、明治初年の大福帳に見られる「御領社中」**の記載をもとに、御領神社の本来の名称について検討を行った。
その後、『近江蒲生郡志』を調査したところ、御領神社の項に棟札全文が掲載されていることを確認した。同書には**「御霊神社、御領大明神トモ記ス」と記され、大正3年(1914)10月に吉水神社へ合祀されたことが記録されている。さらに、祭神を高皇産霊神(たかみむすびのかみ)**とする記載も確認することができた。これらは、御領神社の歴史や実像を考える上で重要な新たな知見である。
一方、『竜王町史』掲載写真は白黒写真で画質にも限界があり、一部判読が困難な箇所があった。しかし、『近江蒲生郡志』掲載本文と照合することにより、これまで判読が難しかった部分を含め、棟札全文をより正確に読み解くことが可能となった。
そこで本稿では、『近江蒲生郡志』掲載の棟札全文を底本とし、『竜王町史』掲載写真と比較・照合しながら、棟札の翻刻・読み下し・現代語訳を示すとともに、その記載内容について検討する。なお、『近江蒲生郡志』で確認された祭神高皇産霊神および「御霊神社」と「御領大明神」の関係については、本稿では概要を示すにとどめ、次報において改めて詳しく考察する予定である。
なお、本稿は『近江蒲生郡志』掲載の棟札全文を新たに確認したことに伴い、初版(2025年10月27日公開)の内容を全面的に見直し、増補改訂版として取りまとめたものである。
棟札資料の概要
御領神社の棟札は、現在その実物を確認することができていない。現時点で確認できる資料は、『竜王町史』掲載写真および『近江蒲生郡志』掲載の全文である。なお、御領神社は大正3年(1914)に吉水神社へ合祀されており、棟札も現存している可能性はあるが、筆者は現在まで実物を確認するには至っていない。
『竜王町史』には棟札写真が掲載されているが、一部判読が困難な箇所がある。一方、『近江蒲生郡志』には棟札全文が活字で掲載されており、写真では判読できなかった文字を確認することができる。
本稿では、『近江蒲生郡志』掲載全文を基本資料とし、『竜王町史』掲載写真と照合しながら翻刻・読み下し・現代語訳を行った。
『竜王町史』掲載写真
『竜王町史』には御領神社棟札の写真が掲載されている。しかし、写真は白黒で画質も十分ではなく、一部の文字は判読が困難である。一方で、「御領大明神」「後花園院御宇 康正二年」「元禄十四年」など、本棟札の歴史的価値を示す重要な文字は確認することができる。
第1報では、この掲載写真をもとに棟札の再読を試み、「後花園院御宇」の記載を確認した。また、第2報では「御領大明神」の記載に着目し、明治初年の大福帳「御領社中」とあわせて御領神社の名称について検討を行った。

『竜王町史』掲載写真。①「御領大明神」、②「後花園院御宇 康正二年」、③「元禄十四年」の各文字が確認できる。第3報では、『近江蒲生郡志』掲載全文と照合することにより、写真では判読が困難であった部分についても再検討を行った。
『近江蒲生郡志』掲載棟札本文
その後、『近江蒲生郡志』巻六を調査したところ、御霊神社(御領大明神)の項に棟札全文が活字で掲載されていることを確認した。『近江蒲生郡志』には「御霊神社、御領大明神トモ記ス」と記され、康正2年造営、元禄14年改造の棟札が紹介されている。また、棟札本文だけでなく、裏面に記された大工名や筆者名まで採録されており、『竜王町史』掲載写真では判読できなかった箇所を補うことができる。
翻刻(『近江蒲生郡志』掲載本文)
(表)
御領大明神御社昔時ノ年數不成分明、
其後中興後花園院御宇康正二年ニ造營ス、
年數至二百有四十六春、
于時元禄十四辛巳年亦造営スト云々。
(裏)
大工頭領 鵜川村圖司平九郎
同德兵衛
同八郎兵衛作西川村年寄宮司十二人之內
体故□西元禄十四辛巳年四月廿七日
筆者
同村谷口五郎左衛門尉佐矩
鏡山軒如柳
翻刻は『近江蒲生郡志』掲載本文に従った。なお、「体故□西」の一字は判読できず、『近江蒲生郡志』においても判読が困難であるため、□で示した。
読み下し文
(表)
御領大明神の御社、昔時の年数は分明ならず。
その後、中興し、後花園院の御宇、康正二年に造営す。
年数、二百有四十六春に至り、時に元禄十四年辛巳、また造営すと云う。
(裏)
大工頭領は鵜川村の図司平九郎、同徳兵衛、同八郎兵衛これを作る。
西川村年寄・宮司十二人の内。
(以下一字判読不能)
元禄十四年辛巳四月二十七日。
筆者は同村谷口五郎左衛門尉佐矩、鏡山軒如柳。
現代語訳
(表)
御領大明神の社は、創建された年代は詳しく分かっていない。
その後、後花園天皇の御代である康正二年(1456)に社殿を再興(中興)し、造営が行われた。
それから二百四十六回目の春を迎えた元禄十四年(1701)に、再び社殿の造営が行われたと伝えられている。
(裏)
この造営には、鵜川村の図司平九郎を棟梁とし、徳兵衛・八郎兵衛らの大工が携わった。
また、西川村の年寄および宮司十二人が関わっており、元禄十四年(1701)四月二十七日に棟札が記された。
筆者は西川村の谷口五郎左衛門尉佐矩であり、「鏡山軒如柳」と号していたことが記されている。
記載内容の検討
「昔時ノ年數不成分明」の意味
棟札冒頭には、
「御領大明神御社昔時ノ年數不成分明」
と記されている。
この「年數不成分明」は、「創建以来の年数が詳しく分からない」「創建年代が明らかではない」という意味に解される。
すなわち、この棟札が作成された元禄14年(1701)の時点においても、御領大明神の創建年代はすでに伝承が失われていたことがうかがえる。
そのため、この棟札は創建を記録したものではなく、康正2年(1456)の中興と元禄14年(1701)の造営という二度の重要な出来事を後世へ伝える目的で記されたものと考えられる。
「後花園院御宇」が示す歴史的意義
棟札には、
「後花園院御宇 康正二年ニ造營ス」
と記されている。
「御宇」とは「天皇の御代」を意味する語であり、「後花園院御宇」は「後花園天皇の治世」を示している。
本棟札では、「後花園院御宇康正二年」と記され、元号だけでなく当時の天皇名をあわせて記している点が注目される。このような記載は、造営年代を当時の天皇の治世と結び付けて示そうとしたものと考えられる。
第1報で述べたように、『竜王町史』掲載写真から「後花園院御宇」の文字を確認できたことは、本棟札の歴史的価値を考える上で重要な発見であった。
「二百有四十六春」という年数の数え方
棟札には、
「年數至二百有四十六春」
と記されている。
康正2年(1456)から元禄14年(1701)までは245年が経過しているが、起点となる康正2年を第一年(第一の春)として数えると、元禄14年は二百四十六回目の春となる。
この表現は、経過年数ではなく、「第○回目の春」として年を数える古い表現であり、本棟札でもその数え方が用いられていると考えられる。
「亦造営スト云」の表現
棟札末尾には、
「亦造営スト云々」
と記されている。
『亦』は『また』『再び』の意味であり、康正2年に続いて元禄14年にも造営が行われたことを示している。
「スト云」という表現については、その意味を直ちに断定することは難しい。元禄14年(1701)に再び造営が行われたことを伝える記述と考えられるが、この表現がどのような意図で用いられたのかについては、現時点では明らかではない。
一方、裏書には元禄14年四月二十七日の日付が記されていることから、本棟札は元禄14年の造営に際して作成されたものと考えられる。
「スト云」の表現については、今後、同時代の棟札など関連史料との比較検討を通じて、その用法を明らかにしていきたい。
裏書に記された大工・筆者・日付の意味
棟札裏書には、大工頭領として鵜川村図司平九郎、徳兵衛、八郎兵衛の名が記されている。これにより、元禄14年(1701)の造営には、鵜川村の大工が携わったことが分かる。
また、裏書には**「元禄十四辛巳年四月廿七日」**と記されており、この日付は棟札が作成された時期を示す重要な記録である。
さらに、筆者として**「同村谷口五郎左衛門尉佐矩鏡山軒如柳」**と記されている。「同村」は西川村を指すことから、谷口五郎左衛門尉佐矩は西川村の人物であったと考えられる。また、「鏡山軒如柳」は、その号(雅号)である可能性が高い。ただし、現時点では他の史料による確認ができていないため、断定はできず、今後の検討課題としたい。
裏書には、造営に関わった大工、筆者、作成年月日が具体的に記されており、御領神社の造営に携わった人々を知ることができる貴重な記録である。
『近江蒲生郡志』に記された祭神「高皇産霊神」
『近江蒲生郡志』には、御霊神社について**「御霊神社、御領大明神トモ記ス」と記すとともに、祭神を高皇産霊神(たかみむすびのかみ)**としている。
第2報では、棟札の「御領大明神」および明治初年の大福帳に記された「御領社中」をもとに、御領神社の名称について検討を行った。今回、『近江蒲生郡志』を確認したことにより、御領神社(御霊神社)の祭神が高皇産霊神であったことが明らかになった。
高皇産霊神は『古事記』『日本書紀』に登場する造化三神の一柱であり、天地創成に関わる神として古くから信仰されてきた。また、「産霊(むすび)」は万物を生み育てる生命力を意味し、国家祭祀においても重要な神格とされている。
現時点では、御領神社に高皇産霊神が祀られるようになった経緯は明らかではない。しかし、『近江蒲生郡志』に祭神が明記されていることは、御領神社の歴史を考える上で重要な基礎資料となるものであり、今後さらに関連史料を調査したい。
まとめ
本稿では、『近江蒲生郡志』掲載の棟札全文を底本とし、『竜王町史』掲載写真と照合しながら、御領神社棟札の読み下しと現代語訳を行い、その内容について検討した。
その結果、棟札冒頭の**「昔時ノ年數不成分明」は、御領大明神の創建年代が元禄14年(1701)の時点ですでに明らかではなかったことを示していると考えられる。また、「後花園院御宇康正二年ニ造營ス」**の記載から、康正2年(1456)に社殿の中興・造営が行われたことが記録されていることを確認した。
さらに、**「年數至二百有四十六春」**という表現は、康正2年を起点として数えた二百四十六回目の春、すなわち元禄14年を示しており、近世における年数の数え方を伝える貴重な記録であることが確認できた。
棟札末尾の**「亦造営スト云」**については、元禄14年に再び造営が行われたことを伝える記述であると考えられるが、その表現の意味については、同時代の棟札との比較を含め、今後さらに検討を進める必要がある。
また、裏書には造営に携わった大工や筆者、作成年月日が記されており、元禄14年当時の地域社会を知る上でも重要な史料であることが明らかとなった。特に、筆者として記された谷口五郎左衛門尉佐矩は、「同村」の記載から西川村の人物であったと考えられる。また、「鏡山軒如柳」は、その号(雅号)である可能性が高いものの、現時点では他の史料による確認ができていないため、今後の検討課題としたい。
さらに、『近江蒲生郡志』の調査により、御領神社(御霊神社)の祭神が**高皇産霊神(たかみむすびのかみ)**であることも確認できた。棟札そのものには祭神名は記されていないが、『近江蒲生郡志』の記事とあわせて検討することにより、御領神社の実像を復元するための新たな手掛かりを得ることができた。
今回、『近江蒲生郡志』掲載全文を確認できたことにより、第1報・第2報で『竜王町史』掲載写真から読み取った内容を改めて検証することができた。とりわけ、「御領大明神」「後花園院御宇」の記載は、『近江蒲生郡志』掲載本文によって裏付けられ、その史料的価値をより明確に示すことができた。
本研究では、『竜王町史』掲載写真、『近江蒲生郡志』掲載全文、明治初年の大福帳という複数の史料を相互に照合することにより、御領神社の歴史について新たな知見を得ることができた。今後は、これらの成果を基礎として、御領神社の成立や名称の変遷、祭神との関係について、さらに研究を深めていきたい。
本稿が、御領神社棟札の理解を深めるとともに、西川地域の歴史や中世から近世にかけての神社の変遷を考えるための基礎資料となれば幸いである。
付記 「御陵」の石柱について
筆者は昭和48年頃まで、観音堂近くの宝篋印塔付近に**「御陵(みささぎ・ごりょう)」**と刻まれた石柱が建っていたことを記憶している。現在その石柱は失われており、所在や建立時期を確認することはできないが、「御陵」と古くから伝わる「ごりょう」という地域呼称との関係については、以前から関心を抱いてきた。
また、大友皇子(後の弘文天皇)の終焉地・陵墓については古来さまざまな説があり、滋賀県内をはじめ各地に伝承が残されている。しかし、現時点では西川との関係を示す史料は確認されていないため、本稿では一つの問題提起として記すにとどめたい。
今後は、「御陵」と刻まれた石柱の実在や建立時期について、古写真や地域に残る証言、文献史料などをもとに調査を進め、「ごりょう」という地域呼称との関係についてさらに検討していきたい。
初版公開:2025年10月27日
改訂版公開(最終更新):2026年7月11日
※『近江蒲生郡志』掲載の棟札全文を確認したことに伴い、本文を全面的に見直し、翻刻・読み下し・現代語訳および考察を加筆・改訂した。
※本稿は継続中の研究の一部であり、今後の調査により内容を修正・追補する場合があります。

