ビデオにとっておいた新春時代劇『天下騒乱 徳川三代の陰謀』(10時間)を観た感想。
改めて胸を打たれたのが――
荒木又右衛門という武士の在り方だった。
村上弘明が演じる荒木又右衛門は、
声高に正義を叫ぶわけでもなく、
己の剣の冴えを誇示することもない。
ただ、黙して立ち、
為すべきことを為す。
その姿に、
「ああ、これが武士なのだ」と、
思わず背筋が伸びる思いがした。
◆ 鍵屋の辻の仇討ち ― なぜ人々の心を打つのか
鍵屋の辻の仇討ちは、
日本三大仇討ちの一つに数えられる。
けれど、この仇討ちが特別なのは、
華々しい勝利譚だからではない。
むしろ――
・命を賭けても報われる保証はなく
・仇討ちを果たしても、その後の人生は安泰ではない
それでもなお、
人が「やらねばならぬ」と腹を括ったところにある。
渡辺数馬にとって、仇討ちは復讐ではなく、
生きる資格を取り戻す行為。
そして荒木又右衛門にとっては、
自分の仇でもない戦いに、身を投じる覚悟だった。
◆ 仇討ちとは、感情ではなく「責任」だった
現代の感覚では、仇討ちは「私的復讐」に見える。
しかし江戸時代の仇討ちは、制度の中にあった。
届け出をし、黙認を受け、
成功すれば報告をする。
つまり仇討ちとは、
怒りの発露ではなく、家と秩序を守るための最終手段。
親兄弟を斬られたまま放置することは、
武士にとって
「自分は死んでいるのと同じ」ことだったのある。
◆ 荒木又右衛門は、なぜ剣を取ったのか
ここで、荒木又右衛門の存在が際立つ。
彼は主役ではない。
河合又五郎を討つのは、あくまで渡辺数馬。
又右衛門の役割は、
数馬が本懐を遂げるための道を切り拓くこと。
名槍使い・桜井半兵衛を引き受け、
自分は「脇」に徹する。
ここに、
村上弘明の荒木又右衛門が持つ凄みがある。
それは剣の強さではなく、
「自分がどう見られるか」を捨て切った強さ
である。
◆ 武士とは何者だったのか
このドラマを観て、
改めて思う。
武士とは、
強い者ではない。
勝つ者でも、
生き残る者でもない。
武士とは、
義の前に、己を差し出せる者
だったのだと。
荒木又右衛門は、
仇討ちの後、栄達することもなく、
静かに、短い生涯を終える。
それでも彼は、
「間違った生き方をした」とは言われない。
なぜなら――
為すべきことを、為したから。
◆ なぜ、今も胸を打つのか
『天下騒乱 徳川三代の陰謀』が、
そして鍵屋の辻の仇討ちが、
今も語り継がれるのは、
そこに
・損か得か
・勝つか負けるか
を超えた世界が描かれているからである。
村上弘明の荒木又右衛門は、
静かに問いかけてくる。
「それでも、あなたは手を差し伸べるか」
だからこそ、この物語は、
単なる時代劇では終わらない。
人として、どう生きるか。
その核心を、
私たちに突きつけてくるのだと思う。
