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近江ゆかりの赤穂浪士 ― 忠義の物語を歩く

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討ち入りの日に――忠臣蔵という感情装置

十二月十四日。討ち入りの日である。 わたくしにとって時代劇の王道は、やはり何度観ても胸を打つ『忠臣蔵』だ。史実と脚色が巧みに織り交ぜられ、日本人の感情をここまで揺さぶる物語は、他にそう多くはない。

とりわけ心をつかまれて離さないのが「南部坂雪の別れ」。 浅野内匠頭の妻・阿久里(のちの瑤泉院)が幽閉されていた赤坂屋敷を訪れた大石内蔵助は、敵の間者を欺くため、あえて本心とは逆の言葉を口にする。

殿の仇は必ず討ってくれる――そう信じて疑わなかった瑤泉院は、失望のあまり内蔵助を激しく罵る。真意を明かすこともできぬまま、雪の積もる南部坂を下っていく内蔵助。その背中を思うと、こちらまで胸が締めつけられる。

だが、その緊張が一気に解き放たれるのが、血判状の場面だ。腰元に化けた間者が取り押さえられ、畳の上にひらりと落ちる血判状。そこに記された家臣たちの誓詞を見た瑤泉院は、先ほどの言葉を悔い、ただひたすら仇討ちの成就を祈る――。ここで、溜まりに溜まった感情が一気に解放される。

忠臣蔵は、討ち入りまでの長い忍耐の物語である。だからこそ、この「わかっていた」という瞬間が、何度見ても涙を誘うのだ。

名場面が生むカタルシス

もう一つ、どうしても外せないのが「赤埴源蔵 徳利の別れ」。 兄の留守中、今生の別れを告げに来た源蔵が、兄の着物を前に酒を飲むあの場面である。赤垣ではなく赤埴(あかばね)が正しいという点も含め、忠臣蔵好きにはたまらない一幕だ。

討ち入り後、義士たちが堂々と吉良上野介の首を掲げて引き揚げると、江戸の町民は拍手喝采で迎える。源蔵の兄が、弟が討ち入りに加わっているかどうかを案じながら女中に言いつける場面も、重い物語の中に差し込まれた人間味あふれる名シーンである。

「おったら大きな声で言え。おらなんだら黙って帰って来い」

そして女中は、満面の笑みでこう叫ぶ。

「旦那さまぁ、源蔵さまがおられましたぁ!」

ここで、また一気に報われる。忠臣蔵とは、実に感情の起伏を巧みに設計した物語なのだ。

近江の国と赤穂浪士

さて、前置きが長くなったが、本題である。 実はこの赤穂浪士の中には、近江の国、現在の滋賀県と深い縁を持つ人物が少なくない。

大石内蔵助良雄

主人公・大石内蔵助良雄。その大石氏の発祥地は、現在の滋賀県大津市大石(近江国栗田郡大石村)とされる。祖先は平将門を討った藤原秀郷に連なるとも伝えられ、近江はまさに大石家の原点である。

近松勘六行重

近松勘六行重は、現在の滋賀県野洲市(近江国野洲郡中主町比留田村)の出身。 近松門左衛門の係累にあたる家系であり、京都の近松家本家に連なるという。

天体望遠鏡の「木辺レンズ」で知られる御門主がいたことでも知られている「錦織寺」(野洲市中主)には勘六の墓がある。近江という土地が、学問や技術、そして武士の倫理を支えてきたことを思わずにはいられない。

奥田孫太夫重盛・奥田貞右衛門行高

奥田孫太夫重盛は、赤穂浅野家の重臣であり、近松勘六行重と縁の深い人物である。その養子となったのが、腹違いの弟にあたる奥田貞右衛門行高であった。

貞右衛門は、養父・孫太夫とともに赤穂浪士の一人として名を連ね、主家再興の望みが断たれた後も、浅野家への忠節を貫いた。現在の滋賀県東近江市には、奥田孫太夫・貞右衛門父子の墓が残されており、主従と家族の絆を今に伝えている。現地を訪ねると、雪野山山麓の静かな場所に、今もひっそりとその供養塔が建っている。

赤埴源蔵

徳利の別れで知られる赤埴源蔵。その一族の墓は、大津市の法性寺にある。物語として親しまれる場面と、現実の土地が静かにつながる瞬間である。崩し字の赤埴(あかばね)の字が赤垣(あかがき)と読まれたが、正しくは「あかばねげんぞう」である。

義僕・近松甚三郎という存在

ここで、物語の光が当たる四十七士の陰にあって、どうしても語らずにはいられない人物がいる。近松勘六に仕えた家僕・近松甚三郎である。

勘六には切腹時、実子がいなかった。そのため従者であった百姓・甚三郎が庶子として家督を継いだとされる。浪人となった勘六が暇を出そうとしても、甚三郎は最後まで仕えることを願い、行く先々に付き従った。

討ち入り前夜には、大石内蔵助の命により瑤泉院のもとへ金銀請払帳などの重要書類を届け、討ち入り当夜は門外で警戒にあたる。泉岳寺へ引き揚げる義士たちには、祝意を表して蜜柑や餅を配ったという。

後世、人々は彼を「義僕」と呼んだ。

忠義と生の保障――忠臣蔵のもう一つの顔

さらに心を打たれるのは、勘六切腹後の近江・中主村の人々の営みである。

勘六から譲られた百六十石の田地を、家人十六家が共同で耕作し、義士切腹の日である二月四日には、輪番で法会を行い、今日まで供養を続けてきたという。

主君・浅野内匠頭との主従関係においては「死」を選びながら、己の家人との関係においては、土地を与えることで「生」を保障した近松勘六。

ここに、単なる忠義譚では語り尽くせない忠臣蔵の深みがある。

おわりに――近江から見つめる忠臣蔵

近松勘六もさることながら、その勘六に最後まで仕えた甚三郎、そして三百年以上にわたり供養を続けてきた人々の後裔に、深い敬意を覚える。

忠臣蔵とは、討ち入りの物語であると同時に、人が人としてどう生き、どう責任を引き受けるのかを問い続ける物語なのだろう。

討ち入りの日に、近江の地を思い浮かべながら、あらためてその奥行きを噛みしめたい。

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この記事を書いた人

旅に出て土地に流れる時間に耳を澄ませ、歴史の面影を今に伝える風景や文化を訪ね歩いています。近江の歴史を中心に、史料や文学にも親しみながら、各地で出会った風景や物語、人々の営みを書き留めています。地域に息づく記憶や文化の魅力を静かに綴る、旅と歴史の記録です。

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