桜の季節の光明寺へ
桜の季節、約二十年ぶりに京都・長岡京の西山浄土宗総本山 光明寺を訪ねた。
紅葉の頃には多くの参拝者で賑わう寺も、この時期は人影が少なく、境内には静かな時間が流れていた。
淡い春の光が山門や堂宇をやわらかく包み、どこか懐かしい気配が漂っている。



勅使門と、信楽庭
私にとってこの寺は、特別な思い出の場所である。
かつてここには、御前様とお呼びして心の中で祖父のように尊敬し慕っていたお方――
光明寺第八十三世法主・松尾全弘氏(完空上人)がおられた。
今回は久しぶりに光明寺を訪れ、受付で「完空上人ゆかりのものはありますか」と尋ねてみた。
すると修行僧の方が丁寧に案内してくださり、かつて上人がおられた部屋へつながる赤い毛氈の敷かれた廊下を通り過ぎ、大書院、小書院を経て釈迦堂前へ進む。
そこには勅使門と、見事な庭園「信楽庭」が広がっていた。

この庭は紅葉の時期のみ公開されるという。
以前にも拝見したことがあるが、歳月を経て眺める庭はまた趣が異なる。
静かな春の光の中、しばらくその景色に見入っていた。
完空上人 晋山式の記憶
初めて光明寺を訪れたのは、今から二十五年ほど前のことである。
和歌山の梶取本山総持寺におられた御前様が、総本山の管長に就任された晋山式の時だった。
晋山式の後も何度か御前様にお会いするために伺ったが、今回訪れたのは、上人が山を下りられた退山式以来である。
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御影堂で行われた晋山式は実に盛大で、その厳粛な空気はいまも忘れることができない。
朱色の法衣に金の袈裟をまとった完空上人が静かに立ち、合掌されている。その前では二人の僧侶が深くひれ伏し、周囲には大勢の僧侶が頭を垂れていた。御影堂全体が厳かな空気に包まれていたのである。
後日、上人はその時の写真を何枚も送ってくださった。私は御影堂の後方に座っていたが、写真は本堂右手から撮影されたもので、当日の様子がよく分かる貴重な記録となっている。
シベリア抑留生活の話
上人は戦後、旧ソ連の捕虜となり、シベリアで抑留生活を送られた。
二百人ほどの隊長として、強制労働と食料不足の中で部下を励まし続けられたという。
夏にはヘビを捕まえて塩漬けにし、冬の食料にしたという話も、何度も聞かせていただいた。
そのような過酷な環境の中で皆を励まし耐え続けることができたのは、自分が僧侶だったからだ――上人はそう語っておられた。
抑留生活の中で詠まれた歌がある。
阿弥陀仏こそ 尊とけれ
この世の常の 姿して
わが身離れず 添いたもう
「日本では陰膳を据えて待ってくれている親や妻や兄弟がいる。必ず元気で帰るのだ」。そう言って、自らにも部下にも言い聞かせながら、日々を耐え抜かれたという。
帰国の際には、ロシア側が「よく頑張った」と真新しい衣服を支給してくれたそうで、そのため日本ではしばらく「ロシアの思想に洗脳された赤ではないか」と疑われたこともあったと、笑いながら話しておられた。
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退山式で感じた無常
晋山式の荘厳さもさることながら、強く印象に残っているのは退山式である。
晋山式も退山式も、全国の末寺や関係寺院から多くの僧侶が集まり、総本山ならではの壮観な光景が広がっていた。
その中で私の心に残ったのは、掲げられていた看板の大きさの違いであった。
退山式の看板よりも、次の管長の晋山式の看板の方が大きかったのである。
仏教寺院では一般に、
- 晋山式=新しい住持が山に入る「始まり」
- 退山式=住持が山を去る「区切り」
という意味合いが強く、「迎える儀式」の方が華やかになるのだという。
そう考えると、完空上人が管長に就任された時の晋山式でも、当時は大きな看板が掲げられていたのであろう。
人は去っても、法灯は受け継がれていく。
そこには、個人よりも法脈――仏法の流れが続いていくことを大切にする、仏教的な世界観が表れているように思えた。
山門が閉じる音
もうひとつ忘れられないのは、長い行列で山を下り、上人方が山門をくぐられた瞬間、門の扉が「ピシャン」と音を立てて閉められたことである。
「どうして閉めるのだろう」
その音に、何とも言えない寂しさと無常を感じた。
後に伺ったところ、総門は晋山式まで閉じられるのだという。
退山式によって一つの時代を閉じ、新たな管長を迎える晋山式によって、再び門が開かれる。
その厳かな区切りの中で、御前様は山を下りて行かれたのである。
山の下には和歌山ナンバーの黒い車が数台待っており、御前様はその一台に乗られ、そのまま去って行かれた。
私は、「着替えてまた寺へ戻られるのではないか」とどこかで思っていた。しかし御前様は、そのまま戻られることはなかった。
まるで葬儀で見送るような気持ちになり、何とも言えない悲しさが込み上げてきた。
後にそのことを上人に話すと、
「あれは、もう二度と帰ってくるな、という意味なのです」
と静かに教えてくださった。
従来、総本山の管長は亡くなってから山を下りるのが慣わしだったという。つまり退山式は、葬儀であった。
しかし完空上人は、高齢で御影堂への参拝が難しくなる前に山を下りる「生前退山式」という形を選ばれた。
以前、私が「なぜ退山されるのですか」とお尋ねしたことがある。すると上人は、
「あとがつかえているからです」
と、静かに笑って答えられた。
その言葉には、自らの地位に執着せず、次の世代へ法灯を受け渡していこうとする上人らしい潔さが表れているように思えた。
さらに、管長の任期を五年とする制度へ改められたという。
亡くなってからではなく、務めが果たせなくなる前に退く。その潔さは現実的でありながら、仏道の精神にもかなっているように思えた。
寺との縁を完全に断つ儀式でもあったからこそ、
- 山門が閉じられる
- そのまま戻らない
という形が、象徴として残っていたのであろう。
生きておられるのに、もう戻らない。
それを目の前で見送る寂しさは、今も心の奥に残っている。
完空上人は九十五歳まで生きられ、平成二十年(2008)五月、和歌山の生まれ育った寺・萬福寺で静かに生涯を閉じられた。
完空上人の扁額ーー佛作佛行

光明寺の長い廊下を案内していただいた先、階段とエレベーターの手前上に、大きな扁額が掲げられていた。
御影堂へ日々参拝するには長い階段がつらくなるから――そう言って上人が設置されたエレベーターであったことを、かつてご本人から伺ったことを思い出した。
修行僧の方が静かに、
「こちらが完空上人の書かれたものです」
と教えてくださった。
そこに掲げられていたのは、
「佛作佛行」
という四文字であった。
力強い筆致が、静かな空間の中に凛として浮かび上がっている。
仏を作り、仏の行いをなす――。
その言葉は単なる教義の標語ではなく、上人が生涯をかけて体現された姿そのもののように思えた。
人は肩書きや地位によって尊いのではない。日々の振る舞いの中に、どれだけ仏の心を宿せるか。そのことを、上人は言葉よりも生き方によって示しておられたのだろう。
私はしばらくその場に立ち尽くしていた。
「佛作佛行」の言葉が、人としてどう生きるべきかを、静かに問いかけているように思えたからである。
春のやわらかな光が背中に差し込み、境内には風に揺れる桜の気配が漂っていた。
まるで上人が、
「また来てくれましたね」
と静かに迎えてくださったような気がした。
おわりに
今回、普段は非公開となっている「信楽庭」も特別に見せていただき、境内を丁寧に案内していただいた。
帰り際には、修行僧の方々がいつまでも手を合わせて見送ってくださった。その姿に、何とも言えないありがたさが胸に込み上げてきた。
完空上人がおられた頃から変わらぬ、光明寺の静かな温かさに触れたような気がした。

















